四国八十八ヶ所、二番札所極楽寺

本堂 極楽寺御詠歌 本堂横から見た写真

四国八十八ヶ所第二番札所のご本尊は極楽寺本堂の阿弥陀如来(国指定重要文化財)である。 四国参りは、お遍路と呼ばれ、作法として四国八十八ヶ所、各札所の本堂・大師堂二ヶ所を必ずお参りし、 高野山奥の院へお礼参りへいくことになる。

二番札所のかつての本堂は長宗我部軍の侵入の際、破壊、消失したと伝えられるのであるが、 その真偽は定かではないが、現本堂は万治二年(1659)の再建である。

当寺の本尊は伝説につつまれた像である。すなわち寺伝によれば、弘法大師が巡錫し、 二十一日間にわたり阿弥陀経を読誦し修法されていると、 その結願の日に阿弥陀如来がいずくからともなく弘法大師の前に現れ弘法大師におことばを賜ったという。
大師はそのお姿を忘れないうちにと、ただちに刃をとって、阿弥陀如来を刻みはじめ、 旬日でそれを完成させ、この寺のご本尊としてお納めしたという。 ところが後に、このご本尊の後光が鳴門の長原沖にまで達し、沖に働く漁民の支障となったので、 漁民たちはこの光をさえぎろうと本堂の前に小山を築いた。 それからは大漁があり、日照山の山号もそれにちなんでつけられたという所伝をもっている。

遍路とは?

お遍路(四国八十八ヶ所巡礼)とは、極楽寺縁起に述べてあるように、 讃岐の国に生まれ後に真言宗の祖となった空海(弘法大師)は、青年時代に一介の求道者として四国の山野を跋渉し、 それら一つ一つの点を霊地と定め、弘仁六年(815年)四国霊場を設定した。
弘法大師の手により、正当に位置付けられた「真言密教」における実践の道場として、高野山と四国霊場がある。
高野山はいうまでもなく、真言密教の根本道場であり、また「女人禁制」の山として、 その性格が象徴されるように密教宣布に不可欠な真言行者の修練の道場である。
宗教における廻教の歴史は古い。イスラム教徒はひたすら「メッカ」をめざして歩み、 ヒンズー教徒はベナレスで沐浴する事を終生の喜びと感じ、 キリスト教徒又ユダヤ教徒は涙を流してエルサレムに祈る。さらに仏教徒においてもパミール高原を横断し、 雪のヒマラヤを越え、仏陀成道の地(ブッダガヤ)へ廻国する。
しかし、それら多くの霊地がある国は、一つの点を目指して歩むのに比し、 四国霊場は八十八を点とし、さらに線で結び「発心」の道場から「涅槃」の道場へと大師と (同行二人)共に歩む。四国霊場の舞台は世界に比類のない、修練と霊験の道場である。

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四国巡拝作法

お遍路におけるお参りの方法などを簡単に要約しています。
極楽寺仁王門前
一番目
山門前(さんもんまえ)
門前にて合掌礼拝(一礼)
手水場
二番目
手水場(ちょうずば)
手を洗い口を漱ぎ清める
鐘楼堂
三番目
鐘楼堂(しょうろうどう)
鐘をつく(自由についてよいお寺のみ、参拝後は戻り鐘になるので撞かない。当山では自由に撞いてよい。)
本堂前勤行
四番目
本 堂(ほんどう)
線香・ローソク・お賽銭をお供えし、念珠をすりお経を唱え、 終了後納め札を納める。 (後からお参りの方へ配慮し、正面・通路を開けてお勤めする。)
大師堂
五番目
大師堂(だいしどう)
本堂と同様に作法・お勤めを行う
納経
六番目
納経所(のうきょうしょ)
お参り終了後、納経所にて納経(納経帳・軸・白衣)をいただく。 当山の場合は、個人納経所と団体専用納経所と分かれております。
極楽寺仁王門前
七番目
山門前(さんもんまえ)
最後は門前にて合掌礼拝(一礼)し、次の札所へとお参りになります。 道中お気をつけてお参り下さいませ。

四国遍路は一周約1,400キロにも及ぶ道のりです。作法等ある程度調べて巡拝しましょう。
四国八十八ヶ所はほとんど檀家寺であり、札所でもあります。地元の方、檀家の方の迷惑にならないよう、境内では身勝手な行為は慎みましょう。 どのお寺も古くからの歴史をもち、重要な文化財も所有しています。 また本堂、各お堂はほとんどが木造建築ですので、タバコや火の元には十分注意して下さい。

四国八十八ヶ所霊場会規定
納経時間 朝7時から夕5時まで
  • お軸
  • 納経帳
  • 白衣(おいずる)
  • 五百円
  • 三百円
  • 二百円

納経所にてお軸・納経帳・おいずる(白衣)等の納経を済ませ、所定の納経料を支払う。
納経帳一冊・お軸一本それぞれ御影(本尊様のお姿)が一枚ずつついてくる。もらい忘れの無いよう注意したい。

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四方山話

年間に数えられないほどのお遍路様がお参りされます。 近年では、外国人の方の本格的なお遍路が増えてきております。
ある日、当山へ青年がお参りされた時、お遍路様を見て疑問に思ったのでしょう、 こちらへ来て突然「何故、四国八十八ヶ所をみなさんお参りされるのですか?」と尋ねてきました。
こちらも日々色々考えておりますが、なかなか答えが出ないことです。
あなたの望むお答えをできるかどうかわかりませんが、 当山にお参りされる方に色々お話を伺いました沢山ある中から少しだけ挙げるとすれば、

  • 今の自分がうまくいってないから何かを変える為
  • ある人は最近亡くなられた身内の方の供養の為
  • 不景気でリストラにあってやり直す為に
  • 身近な方の病気平癒祈願の為
  • 死を直面した時に少しでも多くの仏縁を結ぶ為
  • 遍路そのものが人生だと思い、ひたすら回り続ける
  • 祖父、祖母、父、母(身内)との思い出に
  • 十人十色というようにやはり皆それぞれの思いがあります・・・
    皆さんに、お参りが終わられてお会いすることが出来たときは、
    「お遍路はどうでしたか?」
    と尋ねますが、皆様良いお顔をされ「大変よかったです。」と答えられる方が多いです。
    私には、その時の良いお顔がどなたも素晴らしく、 こちらの心が洗われます。 それぞれ違う思いを持って回られたのにもかかわらず、 皆様の答えが大体同じになるという、不思議な事ですね。
    おそらく道中様々なことがあり、良いことも悪いこともあったでしょう・・・
    と青年にお答えしました。
    そう聞くと、青年はしばらく静かに考えた後に、丁寧にお礼の言葉を述べ、お寺を後にされました。 何気ないやりとりですが、その青年のお礼を述べておられる時の良いお顔に話をしている私が救われました。

    遍路とお寺どちらも何かよくわからないと最近の若い人たちは思うでしょう。
    しかしそれは当然です。
    どちらも一言では言い難く、お寺(お経)の教えは難解な言葉が多いですし、 言葉で表すことができないことも沢山あります。 その目に見えない何かを理解するためには、やはり体験を通して、その何かを感得するしかないのです。
    人は生きていくにあたりどうしても避けることが出来ないことや、 運が良い悪いといったことに、必ず遭遇します。
    お遍路は同行二人(どうぎょうににん)といいまして、自分一人でお参りしているのではなく、 お大師様と一緒にお参りしていると四国では云われ続けてきております。
    お大師様(空海)といえども、1100年以上も昔から活躍されておられるのですから現実的に考えれば そんなに長生きできません。 しかしどうでしょう、実際にお遍路された方に 「お大師様にあわれましたか?」と尋ねてみると「はい」と答えられる方は少なくありません。

    先日お聞きした話ですが、お遍路の道中、山道で難儀しておる方に遭遇し、 見るにみかねお参りを終え、無事帰途に着くまで、お世話をさせていただいたという話を、 親しい先達様よりお聞きしました。 困っていたお遍路さんは大変感激され、助けてくれた先達様に自宅へ帰り次第、気持ちの品を送ったそうです。 突然品物が送ってきたので先達様もびっくりされ、そんなつもりでしたのではと、 その品物へのお礼の品を購入し、お礼へのお返しを送ったと言っておられました。 何でもないような事と思われがちですが、お遍路はお大師様との二人旅でありますが、 まさか本当にお大師様に会えるとは誰も思いません。 しかし、私はその困っていたお遍路様と助けた先達様の心の中に、 お大師様が生きておられる事にあらためて気がつかされました。

    日常の生活というものは、家族(身近な人)と過ごしておれば、何事も当然のように存在しており、 あらためて当然のことに対しての感謝の念は忘れ去られがちです。 また元々自分と他人の垣根は存在せず、自己の心中においてのみ垣根が生ずるものです。
    人は苦労・辛抱・挫折といったようなマイナスを経験し乗り越えた時、 家族(他人)からの優しさ・感謝の念を再認識し、自分から家族(身近な人)や他人を思いやる大事さ、 感謝というものに気がつかされ、 元の垣根の無い心の状態へと戻すことが出来ます。
    お寺でよく耳にする「修行」という言葉は、まさにこの事だと思います。
    生命を授かるということは、いずれその生命が尽きるということであり、 どなたも避けれないことです。 この世に生命尽きてなを、人の心に生き続けるお大師様との出会いがあった方は本当に幸せであり、 それこそお大師様が生きておるといわれる所以であり、遍路が今日まで続き、 人を惹きつける最大の理由の一つではないかと思います。

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    極楽寺縁起

    四国第二番霊場。当寺は行基菩薩の開基と伝えられる。 後に弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の際、当寺に二十一日間にわたり、阿弥陀経を読誦(どくじゅ)し修法された。 その結願の日に阿弥陀如来がいずこからともなく現われ、大師におことばを賜ったという。 大師はそのお姿を忘れないうちにと、ただちに刃をとって、阿弥陀如来を刻みはじめ、旬日で完成させ当寺のご本尊としてお納めしたという。
    ところが、後に、御本尊の後光が鳴門の長原沖まで達し、漁業に支障を与えた。
    漁民たちは悩んだ末にこの光をさえぎろうと本堂の前に小山を築いたところ、それからは大漁が続いたという。 「日照山」の山号もそれにちなんでつけられたと云われている。

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